最近はもっぱら「考えたらまとめる、まとめたら考える」の方に色々書いています。

2009年08月25日

読書欲が湧き出してくる「難解な本を読む技術」

難解な本を読む技術 (光文社新書)
高田明典
光文社
売り上げランキング: 16898
おすすめ度の平均: 3.5
2 フロイト・ラカンの自我心理学などありえない
4 なかなか参考になります
4 現時点では読書ノートを試していないので
5 読書にかかわる全ての人へ―より効率的、効果的な読書法☆
4 高校生・大学一年生向け


タイトルのとおり読書法の本。
僕が今まで読んできた読書法と違うのは、
これが「思想書」の読み方の本だということ。
その例として挙げられているのが
フロイト、デリダ、ドゥルーズ、フーコーなど名だたる人たち。
読んでくうちに難解な思想書が読みたくて仕方なくなってくる。

ではその読書法、
具体的にどういう方法を挙げているのかというと、
「読書ノート」を使うという方法。
読書ノートを作って章ごとに疑問点などをまとめていきなさいよ
というのが筆者の勧めるやり方。

早速僕もニーチェの道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)で試してみる。

しかし序章まで読書ノートを作り終わって、結局やめてしまった。
やっぱり読書ノートは理解は進むけれども極端に読むスピードが落ちる。
これくらいの本だったらまだ読めると思い、読書ノートは踏みとどまった。
もっともっとわかりにくい難しい本のときに使ってみよう。
折衷案として、今回は本の中に書き込みまくって章ごとにポイントを一言ずつ書いていく形式をとってみた。
ポイント書いていくと断然理解が深まる。
少し硬い本はこれで読んでいこう。

以下気になった部分。
本を読んでいると理解したと感じることがありますが、それはそこに書かれている概念を「使う」ことができるようになったということを意味しています。

「そんなに真剣に選書する必要があるのか」という考え方は間違っています。

「読みたいときに読む」「読みたいところから読む」という原則をしっかりと守ることが必要です。
posted by イズミ at 08:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 新書レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2009年08月21日

友情を疑う 親しさという牢獄 / 清水真木



友人。誰のまわりにも一人はいる身近な存在と考えられている。しかし、友人との付き合い方にルールはなく、友人が私たちに何を運んでくるかは予測のつかぬ謎である。誰が友人か、どこに友人はいるのか、友人と親しさの差異は何か、そして友情の政治的機能とは…。本書は、哲学者たちの友情論を手がかりに、公共の空間における対人関係の本来の姿を描きながら、友情の消滅の危機と、それが原因の国家の危機を遠望する。
友情とはいったい何なのか。哲学者たちの思想を通して友情について考えた本。
序盤はキケロから始まり、アリストテレス、モンテーニュ、ルソーと哲学者たちが友情についてどう考えているかを追っていく。
終盤で一気に友情論から日本国全体の問題へと話が発展していく。

この本をまとめると以下のようになる。
■友情の哲学史
・キケロ→友人は公共の空間において、共同体のすべての構成員の利害にかかわるような問題について合意の形成を目標とする討議に参加する者。そして、その討議に参加する意欲を友情とよぶ。

・モンテーニュ→友人は本質的に私的な存在。

・ルソー→友人のモデルとなるのは公共の空間から締め出された存在。友人とは不幸な者であり、友情とは友人の不幸に対する憐れみ。

・カント→友情とは引力(愛)と斥力(尊敬)から合成されたものであり、引力と斥力の微妙な均衡状態のこと。

■ルソーの友情論の危険性
不幸な者たちが互いに相手に対して抱く憐れみが友情の本質である。このような慰め合いが成立するためには、友人たちは絶えず寄り添い、恥をさらすようなことでも何でも打ち明けられる仲でないといけない。何一つ秘密のない関係、あらゆる問題について意見の不一致がない関係。ルソーが理想としているのはそのような関係であり、それを「透明な関係」とよぶ。
しかし、社会をこのような「透明」なものに作り変えると、他人と異なる発言を一切認めない全体主義が成立する。ルソーの友情論は全体主義に結びつく可能性を持っている。
実際にフランス革命ではこのルソーの友情論が全体主義に結びついている。
フランス革命では友愛という言葉が使われるようになる。一対一の友情が祖国への愛に変わり、最終的には全人類への愛へと拡大していく。これが友愛である。
革命から四年後、ジャコバン派が政権を掌握する。この頃から「友愛」という言葉の使われ方が変わってくる。友愛が、意見や利害を共有しているものたちの間だけで成り立つことが強調されるようになってくる。友愛にあずかるためには政府の方針に服従しなければならないようになる。服従しなければ粛清されるからだ。「友愛か死か」はジャコバン派の標語にまでなる。
友愛は「自発的に行使するよう」強制されるものとなってしまったのだ。

■現代の日本
現代の日本では政府や地方自治体がボランティアを行政の必要不可欠の部分とみなし、ボランティアに頼っているように思われる。
そもそも人類の歴史の中で、構成員の善意や自発的な活動をあてにする社会というものが存在したことはない。そのような社会は必ず滅亡するはずである。
共同体全体の利害にかかわるような仕事に必要な労働力はボランティア任せにしてはならない。ボランティアや奉仕活動がその中で大きな比重を占めるようになっていくと大変なことになってしまう。
政府がボランティアや奉仕活動に頼り、制度の欠陥を善意で埋めることを当然のように要求する社会が出来上がる。
これはまさにフランス革命の時の「友愛」を強制する社会と同じである。


とまあこんな感じである。
ジャコバン派は怖いですね。
20世紀少年の「ともだち」を連想させる。
もしくは「友達ならできるよな?」と万引きを強要させる不良を連想。
posted by イズミ at 22:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 新書レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。